行間泥棒
ちくま日本文学の第9巻を読了しました。この巻は坂口安吾。氏の作品はたぶん初めて読みましたが、読んでいるさなかはなぜだか町田康と同一人物であるような気持ちでいました。語り口が私のなかの町田氏のイメージに近いのかもしれません。それはさておき、「堕落論」および「続堕落論」よりも「日本文化私観」のほうが氏の嗜好がよく表れているようでおもしろかったです。そのほかには「高千穂に冬雨ふれり」と「桜の森の満開の下」が秀逸。ひねくれた少年のような人だと好感を持ちました。先月なかばに新潟を訪れた際の目的地のごく近所に、「安吾 風の館」なる文化施設があり、直筆の原稿等を見ることができるということでわずかに期待をしていたのですが、時間がなくひそかに諦めたということがあったので機会があればぜひ訪ねたいと思っております。それにしてもこの“ちくま日本文学”は、名前と代表作は知っているが読んだことがないという有名作家が揃い踏みで、私には最適。ほかにも読みたい作家がいます。
すくないながらも読んだ本の感想を一冊ずつ、こうやってわざわざ記すのはだれかのためではなく自分のためです。記憶力のわるい私は、どんなに気に入って読んでいた本でも2年以内にはそのストーリーを忘れてしまう。恋人には「憶えるために読むのではない(だから忘れていてもよい)」と言われます。私だって読んだ本の内容を憶えていないことを時間の無駄とは言わないけれど、憶えていないという事実がただかなしい。実際こうして細かに感想を書き、ストーリーにいくら言及しても、何年後かの私にはこれを自らの読書記録として読むことはむずかしいのです。読んだという記憶はあるけれど、どんな話だったかはきっと忘れてしまっている。もしかすると断片的には思い出すかもしれない。思い出せたらいいな、という気持ちで感想を記しています。
すくないながらも読んだ本の感想を一冊ずつ、こうやってわざわざ記すのはだれかのためではなく自分のためです。記憶力のわるい私は、どんなに気に入って読んでいた本でも2年以内にはそのストーリーを忘れてしまう。恋人には「憶えるために読むのではない(だから忘れていてもよい)」と言われます。私だって読んだ本の内容を憶えていないことを時間の無駄とは言わないけれど、憶えていないという事実がただかなしい。実際こうして細かに感想を書き、ストーリーにいくら言及しても、何年後かの私にはこれを自らの読書記録として読むことはむずかしいのです。読んだという記憶はあるけれど、どんな話だったかはきっと忘れてしまっている。もしかすると断片的には思い出すかもしれない。思い出せたらいいな、という気持ちで感想を記しています。
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